三重県鈴鹿市 「グリーンプロジェクト鈴鹿花き」の「人工水苔」モスビー君 [地域紹介(三重県・鈴鹿市)]
三重県鈴鹿市の「グリーンプロジェクト鈴鹿花き」の「人工水苔」のモスビー君です。
ほりけん、White day にいいかな?と思っています。
人工水苔は、天然の水苔の機能を持ちながら、腐食したり、カビが生えません。
お水は月に2~3回ぐらい直接上からシャワーを浴びるように与えます。
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なんだか生きているようですね。 多肉がプロペラみたいです。
・色々な色のモスビー君があります。 こちらオレンジ色です。
なんだか、こんな水苔、楽しくなちゃいますね。
三重県四日市湯の山街道 回転寿司「豊和丸」の赤貝・海老・烏賊・エンガワ・蟹みそ・サーモン [グルメ(三重県・四日市)]
三重県四日市の湯の山街道の回転寿司の「豊和丸」です。
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赤貝です。形を保ったまま、酢のご飯にのって出てきます。貝殻も一緒についてきます。
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生ボタン海老です。頭も尾っぽもついて出てきます。 身がプリプリしています。
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烏賊です。イカの10本の足の付け根が形を残しています(左の写真)。蛸です(右の写真)。
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巻き寿司です(左の写真)。 蟹の身と蟹味噌の組み合わせです(右の写真)。
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大きなエンガワです。 コリコリして、アブラも良くのっています。
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サーモンとイクラの組み合わせです。親子丼ではなく親子寿司です。
サッパリしたレモン味が食感を誘います。
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デザートです。コーヒーゼリーと皮の器に入ったパインナップルです。
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寿司の値段表です。 安くはありませんが、ネタは抜群です。
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少し贅沢な回転寿司でランチを楽しみました。少しリッチな気分になりました。
三重県四日市国道23号線グルメ 鰹・海老・するめいか味のラーメン「一文字亭」 [グルメ(三重県・四日市)]
三重県四日市の国道23号沿いにあるラーメン専門店「一文字亭」です(左の写真)。
店の中に入ると、通天閣で見かけるビリケンさんが座っていました(右の写真)。
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ランチメニューです。色々に味をつけたラーメンがあります。①焦がしにんにく香味、②つけ麺、③赤味噌八丁香味、④鰹(かつお)香味、⑤海老香味、⑥するめいか香味
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こちらは、⑤海老香味のラーメンです(左)。チャーシューや煮玉子が入っています(右)。
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小さい海老が沢山入っています。出汁にも海老の味がついています。自然の味です。
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こちらは、鰹香味のラーメンとねぎまんまのランチセットです(左)。
この「ねぎまんま」(右の写真)、なかなかの味です。
ネギがタップリです。その下に下味をつけた鰹ぶしが入っています。
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その鰹香味のラーメンです。ラーメンに鰹風味が合うとは知りませんでした。
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古いやかんに入った冷たい水が、ラーメンには合います。雰囲気も出ます。
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世の中、醤油ラーメン、とんこつラーメン、塩ラーメン、味噌ラーメンがあるのだから、焦がしにんにく香味、赤味噌八丁香味、鰹香味、海老香味、するめいか香味のラーメンがあっても可笑しくはないですよね。
三重県鈴鹿市 加佐登神社の日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥塚古墳 [地域紹介(三重県・鈴鹿市)]
三重県鈴鹿市の加佐登神社に日本武尊(やまとたけるのみこと)の「白鳥塚古墳」があります。
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そのことを刻んだ石碑(左の写真)と白鳥塚古墳です(右の写真)。
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「白鳥塚古墳」は加佐登神社の裏手にあります。
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「白鳥塚古墳」の入口です(左の写真)。その測量図です(右の写真)。
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日本武尊は、負傷した後も、どうしても大和の国にたどり着きたかったようです。
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『(日本武)尊が葬られた後に白鳥になり(大和の国に)飛び立った
という伝説にちなみ、白鳥塚と呼ばれている』との記述があります。
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色々なものが出土します。ここが古墳であることを裏付けています。
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明治9年(1876年)、教部省は白鳥塚をヤマトタケル陵墓と治定しましたが、明治12年(1879年)に宮内省はそれを覆し、来週ブログで紹介予定の丁子塚(現亀山市)を治定しました。以後、丁子塚がヤマトタケル陵墓(能褒野王塚古墳)とされています。
「白鳥塚古墳」の所在地:三重県鈴鹿市上田町
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三重県鈴鹿市 日本武尊 ヤマトタケルノミコト やまとたけるのみこと 古事記 日本書記 加佐登神社 白鳥塚古墳 大同大学 ほりけん 堀
三重県鈴鹿市 日本武尊(やまとたけるのみこと)の最期に持参の笠を祀った「加佐度神社」 [地域紹介(三重県・鈴鹿市)]
古事記・日本書紀によれば、太古の昔、伊吹山の戦いで負傷した日本武尊は、
ようやくのことで現在の加佐度のある場所まで辿りつきました。
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日本武尊が命は果てる最期に持参していたのは剣と笠でした。
その笠を祀ったとされるのが、三重県鈴鹿市にある加佐登神社です。
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加佐登は、日本武尊がついに果てた能保野まで数kmの距離です。
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加佐登神社の本殿への階段です。昼間も薄暗く恐ろしい限りです(左の写真)。
やっとのことで、本殿に到着しました(右の写真)。
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本殿の脇に、加佐登神社の由来が記されていました。太古の昔が蘇ってきます。
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日本武尊の最期の道を歩きつつ、ほりけん、今、太古の昔を旅しています。
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「加佐登神社」の所在地:三重県鈴鹿市加佐登町2010
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三重県鈴鹿市 加佐登神社 やまとたけるのみこと 日本武尊 古事記 日本書紀 伊吹山の戦い 大同大学 ほりけん 堀
三重県四日市市采女 「古事記」にみる日本武尊(やまとたけるのみこと)の「血塚社」 [地域紹介(三重県・四日市)]
「古事記」によれば、太古の昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、九州・出雲を平定し、その後、東国の蝦夷征討も各地で勝利をおさめました。しかし、伊吹山の戦いで負傷し、現在の三重県四日市市采女町の場所にあった井戸の水で血封じをしたとあります。今は、その場所に、そのことを祀った「血塚社」があります。
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伊吹山の戦いで負傷し病にかかった日本武尊が、伊吹山から大和へ向かったとされるルート
①剣を杖にして、その杖を衝いて登ったとされる「杖衝坂(つえつきざか)」
②坂の上の井戸の水で血を封じたとされる「血塚社」
③石薬師
④傘と剣を忘れたとされる「加佐登(かさど)」
⑤ついに、力尽きたとされる「能褒野(のぼの)」
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鳥居の上に「血塚社」の文字があります(左の写真)。
日本武尊が血封じに使った水をくみ上げた井戸が残っています(右の写真)。
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日本武尊の名が刻まれています。
「古事記」に残された話を、この地に残る言い伝えが実証しています。
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ほりけん、この歳にして、91歳の父親から、①三重県に残る言い伝え、②太平洋戦争の経験、③野菜の作り方等、多くのことを学んでいます。
特に、太平洋戦争の話は、父親として、2~3年前までは、その悲惨さを一切口にすることはありませんでした。ただ、最近は、語り伝えようとしているのでしょうか。戦争経験者が、町内に、ほりけんの父親以外にはいなくなったこともあるのでしょうか。町内から頼まれ、多くの町民の前で戦争の経験談をすようになりました。
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三重県四日市市采女 古事記にみる日本武尊(やまとたけるのみこと)の「杖衝き坂(つえつきざか)」 [地域紹介(三重県・四日市)]
ほりけんの自宅から3km東の三重県四日市市采女町に「杖衝き坂(つえつきざか)」があります。
太古の昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が杖を衝いて登ったと言われています。
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坂の中腹に「史跡杖衝坂」の標柱が建てられています。柱の裏側にこの坂の由来が刻まれています。
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『この坂は太古の昔、日本武尊が東征の帰路、疲れ果てられた身でこの地をお通りになり「我が足三重勾りなして疲れたり」と仰せられたので、この地を「三重」と言い、またお疲れのあまり腰の剣を杖についてこの坂を登られたので「杖つき坂」と言える。この事は古事記に載せられている。』
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ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)と「倭建命」(古事記)の2つの漢字表示があります。第12代景行天皇の子として誕生し、幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。生まれつき武勇にすぐれた尊は若くして九州の熊襲、出雲を平定し、続いて東国の蝦夷征討へと旅立ちます。各地で戦い勝利を続けましたが、伊吹山の戦いで傷つき、この坂を杖を衝いて登ったと言われています。
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後に、弘法大師が村民に水を与えたとされる井戸もそこに残っています。
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負傷し病にかかった日本武尊は、剣を杖にして衝いて坂を登り(後に、「杖衝坂(つえつきざか)」と呼ばれる)、坂の上の井戸の水で血を封じたとされています(後に、「血塚社」と呼ばれる)。さらに、日本武尊は、石薬師を越え、その先で傘と剣を忘れました(後に、その地は「加佐登(かさど)」と呼ばれる)。そして、ついに、能褒野(のぼの)まで来て力尽きたとされています。
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後に、芭蕉がこの地を馬で登ろうとして落馬し、そのことを俳句にうたっています。
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芭蕉の句を記した江戸時代の石碑です。
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ほりけん、この歳になって、古事記と91歳の父親を介してのこの地域に残る言い伝えを頼りに日本武尊の在りし日に思いを馳せています。
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三重県四日市市采女 菊屋の和菓子「杖衝最中(つえつきもなか)」を「滴水亭」で食す [グルメ(三重県・四日市)]
三重県四日市采女町に古くから伝わる和菓子「采女の杖衝最中(もなか)」があります。
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35年前、ほりけん23歳の時、現在の妻の実家を始めて訪問したときの手土産です。今は亡き御袋の助言によるものです。ほりけん自宅界隈では、高級な手土産として、この「菊屋」の「杖衝最中」が使われたりします。
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「菊屋」は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が杖をついて上ったされる「杖衝坂」の麓にあり、そこから名をとったものです。
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「杖衝最中」以外にも季節の和菓子が色々あります。
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「菊屋本店」の横手には和菓子と抹茶が600円で楽しめる「滴水亭」があります。
滴水亭の中に入ると、お茶をたてる茶器が置かれていました。
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「采女の杖衝」最中を頼みました。 抹茶とよく合います。
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最中の中には粒あんが入っており、その中にもっちりとした餅が入っています。
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「菊屋」の創業は大正7年4月、既に4代続いているとのことです。
ほりけんも親の代から50年間に亘って、この「菊屋」を利用しています。
「菊屋」本店の住所 :〒510-0954 三重県四日市市采女町1878-1
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・和菓子 四日市 采女の里 つえつき 采女の杖衝く 最中 もなか 手土産 菊屋 本店 三重県 餅 粒餡 粒あん 和菓子 抹茶 大同大学 燃料電池 ほりけん
滋賀県彦根市 井伊家の居城・彦根城と城下町の黄昏時 [地域紹介(滋賀県)]
夕暮れ時の彦根城の天守閣です。外堀の外から撮りました。ライトアップされています。
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徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ケ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。 関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去しました。 その後直継が家督を継ぎましたが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山に彦根城の築城を開始しました。
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二の丸から鐘の丸への内堀に架かる橋です。
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鐘の丸近くの内堀に架かる橋です。夕暮れ時、遠くに鳥が飛びます。
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橋の欄干から眺めた街並みです。灯りがお堀に映し出されます。
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橋を渡ると、彦根の古い街並みが目に飛び込んできます。夕暮れ時、人影は疎らです。
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灯りが寂しげに街並みを照らします。
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昼間の彦根城もいいですが、夕暮れ時には、昼間見ることのできない風情が見えてきます。
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滋賀県彦根市 彦根城 天守閣 古い街並み 黄昏時 夕暮れ時 お堀 灯り 内堀 大同大学 ほりけん
三重県四日市湯の山街道 「花・古民芸・古美術」店に見る灯篭・石うす・瓦・荷車・焼き物 [地域紹介(三重県・四日市)]
三重県四日市市の湯の山街道に、ほりけん行きつけの「古民芸」の店があります。
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玄関先には、明治いや江戸時代のものでしょうか?釣る瓶(左)や灯篭(右)が置いてあります。
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古い瓦(左の写真)や石うす(右の写真)が枕木の上に置かれています。
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玄関を入ると古い荷車があり、その周りに花が置いてありました。
暑い夏、お百姓さんが汗を流しながら荷車を引く光景が頭をよぎります。
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嫁入りに使ったのでしょうか?何人もの方がお世話になったのでしょう(左の写真)。
おもちゃだったのでしょうか(右の写真)?これで遊んだ人はもうお爺ちゃんでしょね。・
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こうした花が、色々な家の玄関先に置かれることでしょう。想像するだけでもワクワクします。
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多肉も下から眺めると、また、一味違います(左)。こんな形の瓦もあるんですね(右)。
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なんと言う名前か分かりませんが、いい雰囲気が出ています。
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東海地区の焼き物だけではありません。全国の焼き物が一同にかいしています。
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昔、日常生活で使っていた焼き物の食器類です。昭和の生活が思い起こされます。
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店主は、ちょんまげを結い、甚平を着ています。白髪混じりのひげが何とも言えません。
古民芸をコーディネートしたり、絵を描いたり、庭園の設計を依頼されたり、多才です。
無口です。ほりけん、何故か、そんな彼の生き方に魅かれます。